ケビン・グリュー著
SMRマガジン2020年3月号掲載記事(発行元:PSA)
ジョン・ダービー氏は、家族を失った時以外で、この日は彼の人生の中で最悪な日だったと述べています。
2020年1月26日、カリフォルニア州カラバサスで起きたヘリコプター墜落事故で9名が死亡し、その中に元ロサンゼルス・レイカーズのスーパースターであるコービー・ブライアントと彼の13歳の娘ジアナが含まれていたことを世界中の何百万人ものバスケットボールファンが知った時、彼らもまた同じ様に感じたことでしょう。
「この事実はなかなか現実として受け止められない」と、ダービー氏。彼は自身の18歳の息子をコービーと名付けるほどの長年に渡るレーカーズのファンであり、コービーのカードコレクターでもあります。「とにかく胸が締め付けられる思いです」。
ダービー氏がこのニュースを正式に知ったのは、カリフォルニア州レッドランズで彼が経営するレストラン「ダービーズ・アメリカン・カンティーナ」に居たときのことでした。
その場所から東へ2千4百マイル離れた所では、ブライアントの熱心なカードコレクターであるピエール・ノボア氏がフロリダ州セントオーガスティンにあるライトナー博物館を訪れており、友人からのテキストメッセージを受け取りました。
「昨日はほとんど一日中驚きが治まらないいままでした」と、ノボア氏はブライアントの死から24時間を少し超えたばかりのときに行った電話インタビューで語りました。「今日になって実感が湧き始めてきたところです。正直に言って、この様な影響力のあるアスリートが大惨事で死亡したことが我々の世代で起きたという覚えはないので、他の事と比較のしようがありません。」
場所は再び西海岸に戻り、バスケットボールカードの熟練収集家であるジョン・ウッディ氏は、カリフォルニア州パームスプリングスにある彼の家で妻のジャッキーからこのニュースを聞かされました。
「私はアーティストなので私のスタジオで作業をしていた時、妻の悲鳴のような叫びのような声が聞こえました。私達の子供かペットの犬に何か起きたに違いないと思いました」と、ウッディ氏。「そして妻はコービー・ブライアントが亡くなったと言ったのです」。
ダービー氏やノボア氏、そしてウッディ氏がそうであった様に、コービーが死亡したと知った瞬間は我々の誰もが忘れずに覚えていることでしょう。
バラク・オバマ前大統領が上手く表現したように、ブライアントは41歳という年齢において、彼の人生における「第2の意義ある行動」を実践し始めたところだっただけに、今回の出来事を信じることは容易ではありませんでした。NBAのオールスターに18度の出場を果たした彼は、外から見る限りでは引退後の喜びと成功を手に入れていたようでした。短編映画「ディア・バスケットボール」でオスカーを受賞したり、子供達のためにマンバ・スポーツ・アカデミーを設立したり、そして父親としてとりわけ彼の娘にバスケットボールを教えることに喜びを感じていました。
「ロベルト・クレメンテが亡くなったとき私はまだ生まれていませんでしたが、察するにクレメンテが亡くなった時に似ているのではないでしょうか」と、PSA/DNAのサイン鑑定士であるジョージ・レナウド氏は述べています。「バスケットボールは今や国際的なスポーツなので、世界各地の人々がとても衝撃をうけていることでしょう」。
この日がブライアントの命日となったことは誰の目にも明らかでした。この日、ブラジルの人気サッカー選手であるネイマール・ダ・シウバ・サントス・ジュニオールは、ゴールパフォーマンスでレーカーズのレジェンドに敬意を表しました。ブライアント死亡の翌日には、テニスのスター選手であるニック・キリオスが全豪オープンの4回戦でブライアントのユニフォームを着て入場しました。カナダでは、2大スポーツ専門チャンネルのひとつであるスポーツネットが1時間番組の全てをブライアントの追悼番組として放送しました。
「コービーと言えば、多分彼は地球上で最も有名なアスリートで5本の指に入るでしょう。ひょっとしたら最も有名かもしれません」と、ダービー氏。
ブライアントのNBAでの活躍への道のりは遺伝によって助けられた面もありました。彼の父親であるジョー・ジェリービーン・ブライアントは、1975年から1983年までの8シーズンに渡り選手としてNBAに出場していました。しかしながら、コービーのスーパースターとしての地位は、厳しい練習や無類な競争心、そして彼の「マンバ・メンタリティ」(コービー・ブライアント著の出版物内に書かれた人生訓)によって築きあげられたものです。
その後ブライアントの家族はフィラデルフィアに移り住み、在籍したローアー・メリオン高校でバスケットボールの神童として素質を開花させることになります。最終学年の終わりまでには、彼は全米でトップの高校生バスケットボールの選手となっていました。
彼は大学進学ではなくプロ入りを志望し、1996年のNBAドラフト会議で全体の13番目にシャーロット・ホーネッツから指名され、ロサンゼルス・レイカーズ所属のベテラン選手ブラデ・ディバッツとトレードされたのでした。
レーカーズでの1年目は、エディ・ジョーンズやニック・ヴァン・エクセルといったポイントガード選手の影に隠れていましたが、彼の人気はオールスター・ウィークエンドに開催されたNBAのスラムダンク・コンテストでの優勝を機に一気に高まりました。
大ブレイクを成し遂げた1998-99年のシーズンの前年は、彼は依然として主にレーカーズの6番目の選手という扱いでした。ストライキの影響で短縮された1998-99年のシーズンでは50試合全てに先発出場し、1試合平均19.9点を挙げています。1999-00年のシーズンを迎える頃には、ブライアントはリーグで最高の若きシューティングガードとして頭角を現し、シャキール・オニールと共にNBAで最も強力なタッグを組むことになります。監督フィル・ジャクソンの下、この二人は必ずしも良好とは言えない関係にもかかわらず、2000年から2003年まで3年連続してレーカーズを優勝へと導いたのです。
2003-04年のシーズン終了後にオニールがトレードで放出された後、レーカーズは名実ともにブライアントのチームとなり、そして彼はファンを失望させるようなことはしませんでした。2005-06年には1試合平均35.4点を挙げ、彼は初めてNBAの得点王に輝きました。このシーズンのハイライトは1月22日のトロント・ラプターズ戦で、彼は一人でNBA歴代2位となる1試合81得点を挙げています。さらに翌年の2006-07年シーズンにはアンコールに応え、ブライアントは1試合平均31.6点で2度目の得点王を確実なものとしました。
ブライアントは連続優勝を目指して奮闘し、2007-08年のシーズン中に指の負傷があったにもかかわらず57勝25敗でレーカーズを西地区優勝へと導き、リーグMVPにも選出されました。ブライアントの活躍により、レーカーズはNBA決勝戦まで駒を進めますが、ボストン・セルティックスに6ゲーム目で敗れてしまいました。
しかしブライアントは翌シーズンも諦めることはなく、レーカーズを決勝戦へと再度導いた上、オーランド・マジックを5試合目で退け、さらにこのスーパースターのポイントガードは彼にとって初めての決勝戦MVPを獲得しています。翌年、彼はこの偉業を再度成し遂げ、今回は最大のライバルであるセルティックスを破りレーカーズを優勝へと導いたのでした。
このタイトルと共に、ブライアントはレーカーズのフランチャイズ歴代最高に肩を並べる5個目の優勝リングを手に入れました。身長が6フット6インチ(約198cm)でペンシルバニア生まれの彼はその後の3シーズンも得点を挙げ続けますが、2013年4月12日、プレーオフが始まる9日前にアキレス腱を負傷してしまいます。
負傷が癒えた後のブライアントが以前のように活躍することはありませんでした。最後のNBA公式戦で60得点を挙げるなど選手生活最後の3シーズンも結果を残した彼ですが、幾つかの健康上の理由により2015-16年のシーズンを最後に引退したのでした。
20年間に渡るNBAでの選手生活の中で、ブライアントは18度のオールスター出場や4度のオールスターゲームMVP、2度の決勝MVP、そして2008年のレギュラーシーズンMVPを獲得しています。NBAの歴史の中で最も完成された選手の一人であることに間違いはなく、その強靭なシューティングガードはNBAオールディフェンシブチームのファーストチーム選出が9回、そして通算得点ではNBA歴代4位となっています。
彼の功績を称え、レーカーズは彼が付けた両方の背番号(8と24)を永久欠番とし、彼は今年間違いなくネイスミス・メモリアル・バスケットボール・ホール・オブ・フェイム(殿堂博物館)において死後の殿堂入りを果たすことでしょう。
「コービーは特別な存在でした」と、ウッディ氏。「すごく若くしてプロになったからかどうかわかりませんが、30代後半(選手生活の晩年)になっても皆にとっては小さな子供のようでした」。
彼の功績を鑑みれば、何故ブライアントのルーキーカードやサインの人気が高く、またどうして彼の死後にそれらの需要が急激に上がったのかということが理解できるはずです。
「彼のルーキーカードの価格はとてつもなく高騰しています」と、ノボア氏。「亡くなったことは不幸なことですが、多分100ドル程で買えていたカードが今では1,000ドル以上の価格を付けているものがあることはとても驚きです」。
こちらに掲載しているのは、最も人気のあるブライアントのルーキーカードの数々、そして彼のサインに関する情報です:
ルーキーカード
1996年 トップス クローム #138
こちらがルーキーカードの王道とも言える、ブライアントの最も人気のあるルーキーカードです。このカードには、ミネソタ・ティンバーウルブズ戦でのブライアントのアクションショットが写っています。表面はクローム加工のため容易に傷が付いてしまいます。
PSAでグレーディングされた5,315枚の内、814枚がPSA GEM-MT10を獲得しています。ブライアントの死亡からどれくらいルーキーカードが値上がりしているかという例として、2019年12月にeBayで落札されたPSA GEM-MT10の価格は2,325ドルでしたが、ブライアントが死亡した翌日にはPSA GEM-MT10がeBayで6,800ドルの値を付けました。
このカードにはさらに高額の値が付く限定レフラクター版があります。トップス・クロム・ベースセットに入っている220種類のカードにはそれぞれリフラクター版があり、その封入率は12パックに1枚の割合となっています。
ブライアントが死亡した日、PSA GEM-MT10が付いている68枚の内の1枚がeBayで落札され、その価格は23,900ドルでした。
1996年 スカイボックス E-X2000 #30
このカードはブライアントのルーキーカード中でも、最もカラフルで状態が影響を受けやすいカードのひとつです。背景の空と緑色のフレームの中に、レーカーズのスター選手の躍動感溢れる瞬間を捉えた写真が映えています。
このカードのPSA GEM-MT10は22枚しか存在せず、ほとんど売りに出されることはありません。2019年12月にeBayで落札されたPSA NM-MT8の価格は106ドルでしたが、ブライアントが死亡した翌日にはeBayで同グレードのカードが190ドルで売れています。
ノボア氏によると、このカードの499枚限定シリアルナンバー付き「クレデンシャルズ」版はさらに人気があります。
「このカードは見つけることがとても難しいです」と、ノボア氏。「この色合いがとても気に入っています。キラキラした黄色がとても好きです。このカードは、私にとっては芸術作品みたいなものです」。
このカードの「クレデンシャルズ」版でPSA GEM-MT10はわずかに4枚。その内の1枚は、2018年8月に22,199ドルで購入されました。
1996年 ファイネスト #74
ブライアントの1996年ファイネスト・ルーキーカードはトップス社の主要ブランドのひとつから発行されています。このカードには、若き日のブライアントがダンクシュートする寸前が収められています。
鑑定済みの2,733枚の内、PSA10は873枚となっています。2019年12月には、この中の1枚がeBayで244ドルの値を付けました。ブライアントが死亡した日の2日後には、eBayで別のPSA10カードが500ドルで落札されています。
1996年 ウルトラ #52
このカードには、若き日のブライアントがアンダーハンドレイアップでシュートする瞬間が写っています。フチなし全面写真のため、端の擦れがないカードを見つけるのは困難です。
今までに3,452枚が鑑定され、その内の275枚がPSA10です。PSA10のカードが2019年11月にeBayで売られた時の価格は277ドルでした。同じグレードの価格例として、ブライアント死亡の翌日にeBayで落札された価格は1,501ドルです。
1996年 トップス #138
これはトップス社の最もベーシックなカードで、クローム版のルーキーカードと同じ写真を使用しており、違いは標準のカード用紙に印刷されている点です。
ノボア氏によると、ブライアントの死後にこのカードの価値はかなり高騰しています。
「このカードは一夜にしてプレミアカードの仲間入りを果たしました」と、ノボア氏。
鑑定総数7,428枚の内、1,807枚がPSA10を獲得しています。2019年12月にPSA10のカードはeBayで192ドルでしたが、ブライアント死亡の2日後には同グレードのカードが1,175ドルで落札されています。
直筆サイン
PSA/DNAのサイン鑑定士であるジョージ・レナウド氏は、1996年から2009年にかけて他のどのサイン鑑定士よりもコービー・ブライアントと交流があったと言えるでしょう。
PSA/DNAでの現職に就く前から熱狂的なサインコレクターであったレナウド氏は、「彼がドラフトで指名された直後、まだ私が子供だった頃から彼を追いかけていました」と述べています。「私はカリフォルニア州ロングビーチ市の出身で、コービーがレーカーズの一員として最初に試合に出場したのがロングビーチで開催された南カリフォルニア・サマー・プロ・リーグ戦でした。初めてコービーのサインを手に入れたのは、このサマー・リーグで彼がレーカーズとの初めての練習を終えたときでした。」
当時まだ10才であったレナウド氏は、後にブライアントがサインしてくれた一束2ドルのルーキーカードを買うため、親友と一緒にお小遣いを貯めていたことを覚えています。
「彼は毎日、何にでも気軽にサインしてくれました」と、レナウド氏。「そして2002年まで、彼は依然として定期的に練習場や遠征先のホテルでもサインしてくれていました。」
ブライアントのサインは時代と共に進化していきました。レナウド氏によると、ブライアントの高校時代のサインは「Kobe」でしたが、その後に「Byt #33」へと変わり、さらにNBAのルーキー年には「Kobe」の下に「8」が添えられたサインに変更されています。2006-07年シーズン前に背番号が24に変更になるまで、彼はかなりの長期間に渡ってこのスタイルでサインしていました。
彼の選手生活の晩年にかけて、ブライアントのサインはまた変更されています。
「最後の5年間は、直接サインしてもらえるときには「KB」とだけ書いてくれました」と、レナウド氏。
彼の選手生活初期には、ブライアントはアッパーデック社とサインの専属契約を結んでおり、2009年にはパニーニ社と同様の契約を結んでいます。
レナウド氏の経験によると、高価なアイテムに書かれたブライアントのサインの多くは模造され、レーカーズのスーパースターが亡くなった今となっては益々悪化すると予想されます。
レナウド氏は、「この時期に一儲けしようとする人達によって、彼の模造サインが次々と市場に出回り始めることでしょう」と述べています。
ブライアントの死後、PSA/DNA鑑定書付きアイテムの価格は驚くほど高騰しています。例えば、2019年12月にeBayで落札されたPSA/DNAサイン鑑定書付きバスケットボールが271ドルだったのに対し、死後の2日後には同様のサインボールがeBayで1,500ドルの値を付けています。
2019年12月、eBayでPSA/DNAサイン鑑定書が付いた「1996年 スコアボード ルーキーカード」(PSA/DNA MINT 9)が570ドルで落札されました。それからひと月と少し経った時、まさにブライアントが亡くなった当日、PSA/DNAサイン鑑定書付き「1996年 コレクターズチョイス ルーキーカード」(サインのグレード無し)が1,250ドルにまで跳ね上がっています。
コービー・ブライアントのトレーディングカードやサインに関してさらに詳しく知りたい方は、こちらのページ(PSA CollectibleFacts)(https://www.psacard.com/facts/)をご覧ください。
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本記事内で引用された鑑定分布データは2020年1月現在のデータです。
英語の記事(原文)はこちらをクリック。(https://www.psacard.com/articles/articleview/10056/collectors-will-never-forget-kobe)
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