元阪神監督の吉田義男さんが天国へ旅立った。2月4日、球団が正式に発表した。91歳だった。
立命大を中退し、1953年に阪神入団。身長167cmと小柄ながら、「今牛若丸」と呼ばれた攻守でファンを魅了した。とりわけ、華麗な守備でルーキーイヤーから遊撃のレギュラーに定着すると、54年には盗塁王。64年には打率.318をマークし、リーグ優勝に貢献した。
17シーズン、阪神一筋でプレー。通算2007試合で1864安打、打率.267、66本塁打、434打点、350盗塁。コーチ兼任でプレーした69年に引退。背番号「23」は永久欠番となった。
引退後は球団で唯一、阪神の指揮官を3度、務めた。2度目の監督就任初年度となった85年にはランディ・バース、掛布雅之、岡田彰布らを中心に21年ぶりのリーグ優勝。さらには初の日本一に導き「阪神フィーバー」を巻き起こした。通算8シーズン指揮を執った。グラウンド以外でも、清原和博内野手が西武からFA宣言した96年には、交渉で「ユニホームの縦じまを横じまに変えるくらいの気持ちがある」というとんでもない口説き文句で、清原を感動させ、入団に傾いた、という。
ボクは1994年の夏、吉田さんの自宅にいた。日本ハムの次期監督に吉田さんが浮上した、という記事を書いた後追いをしていたのだ。吉田さんは前年、大沢啓二監督の意向を受け、春季キャンプで臨時コーチにやってきた。94年の日本ハムは前年の2位躍進から低迷し、「親分」の去就も注目されていた。本社サイドから、吉田さんの名前を聞いたボクは大沢監督も後を託すなら吉田さんと確信。1面で書かせていただいた。ちょうど、吉田さんが代表監督を務めていたフランスから一時帰国していた情報をキャッチし、夏の甲子園の取材から、芦屋の自宅に直撃したのだ。
「日本のビバリーヒルズ」こと、芦屋の閑静な住宅街にお屋敷はあった。その大きな門で、門前払いどころか、応接間にまで招待され、「本当に私のところに話は来ていない。来たら教えますよ」と穏やかに、優しく応対していただいたことを覚えている。89年から96年まで、フランス代表監督を務めた際には「ムッシュ」の呼び名で親しまれ、野球の発展にも大きく貢献した。「ムッシュ」とは「閣下」の意味で、まさに「ムッシュ」な対応をしていただいた。
吉田さんのトレーディングカードはその栄えある経歴通り、数多い。バットを短く持って投球に食らいつくような打撃フォームのカードもいいが、やっぱり、守備のカードのほうがカッコいい。
Cove(ライター)
元スポーツ紙ライター。国内外のコレクションアイテムを収集して30年あまり。バブルヘッドのコレクションが自慢で日本唯一のバブルヘッドライター(自称)。トレカはレギュラカードのコンプリと日本人メジャーが中心。