2021年シーズンも開幕し、やはり気になるのは贔屓のチーム。スタートダッシュはうまくいったか、戦いぶりはどうかなど、序盤戦での勢いは今後を占う面で大切だ。
さて、私が贔屓にする横浜F・マリノスが、初めてJリーグチャンピオンとなったのが1995年。1993年にJリーグが開幕し、ヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)との2強と言われながらも最初の2シーズンは優勝から見放されていた。
迎えた1995年、アルゼンチンから新たにソラリ監督を迎え、大胆な選手起用もあり、サントリーシリーズ(1stステージ)で順調に勝ち星を積み重ねていた。しかし、中断期の豪州キャンプにソラリ監督が姿を見せず、そのまま解雇。早野宏史監督が後を引き継いだ。
何とか1stステージに優勝し、NICOSシリーズ(2ndステージ)優勝のヴェルディとチャンピオンシップで激突。ともに国立競技場で開催された試合で、第1戦をビスコンティ選手の得点で1-0と勝利し、続く第2戦も井原選手の得点で1-0と勝ち、念願のJリーグ王者に輝いた。
この優勝の原動力となったのが、グスタボ・サパタ、ラモン・メディナページョ、ダビト・ビスコンティの3選手。Jリーグ初代得点王に輝いたラモン・ディアス選手がソラリ監督との確執もあり、6月にはチームを去っていたものの、アルゼンチン代表歴を持つ3選手がその後のチームを支えてくれた。
グスタボ・サパタ選手は、1993年にアルゼンチンの名門リーベル・プレートから横浜マリノスに加入し、守備的MFとして守りだけではなく、中盤の底に位置し好パスを供給してゲームを組み立てた。
ラモン・メディナページョ選手は、1994年にサパタ選手と同じくリーベル・プレートから横浜マリノスに加入。リーベル・プレート時代の1992-93シーズンには37試合で16ゴールを決める抜群の得点力でアルゼンチン最優秀選手賞にも輝いていた。彼の魅力はなんといっても強引なまでの突破力と右足から放たれる強烈なシュートで、1995年は40試合で21ゴールをマークした。
ダビド・ビスコンティ選手は、1993年にロサリオ・セントラルから横浜マリノスに加入。アルゼンチン代表で10番を背負ったこともある攻撃的なMFとして活躍し、ラモン・ディアス選手のアシスト役としてもチームに貢献した。
ラモン・ディアス選手と共にアルゼンチントライアングルは、当時の横浜マリノスの大きな武器であるとともに魅力でもあった。
2008年に横浜F・マリノスが発売したオフィシャルトレーディングカード「レジェンド・オブ・F・マリノス」には、既にチームを退団していたビスコンティ、サパタ、メディナページョの3選手の直筆サインカードが揃っていた。アルゼンチンに帰国していたサパタ選手やメディナページョ選手にシートを送り、サインを書いてもらったという話だけに、こうした企画への努力が素晴らしい。
各クラブにも、強力な海外からの助っ人選手がいた。そんな外国籍レジェンドプレーヤーのカードを集めてみるのも楽しい。
Chief【ライター】
国内サッカーを中心にトレカの世界を長年に渡って見守って来た元スポーツ雑誌編集者。横浜F・マリノスサポーター。