元NPB東京(ロッテ)オリオンズで通算215勝をあげた村田兆治さんが11月11日、天国へ旅立った。
村田さんは1967年のドラフト会議で東京に1位指名され福山電波工高(現近大付属広島高福山校)からプロ入り。球団がロッテになった2年目にプロ初勝利。4年目には自身初の2桁勝利をあげると、75年には先発と抑えにフル回転し、最多セーブと最優秀防御率のタイトルを獲得。81年には19勝で最多勝にも輝いた。
通算成績は215勝177敗33セーブ、防御率は3.24。左足を大きく上げて体全体で投げ下ろす投球フォームは「マサカリ投法」と呼ばれ、フォークボールで2363三振を奪った。パ・リーグでは1989年から表彰対象になったため、タイトルとしては認められなかったが、4度のリーグ最多奪三振もマークした。
村田さんといえば、NPBではじめてトミー・ジョン手術を受け復活したことで知られる。83年に当時はタブーとされていた投手がひじにメスを入れることに挑戦し、85年に17勝を挙げカムバック賞に選出された。
スポーツ紙に就職して2年目、野球担当になって初めて担当したチームがオリオンズだった。89年のことである。ドラフト1位ルーキーの前田幸長さんは1軍に上がれなかったが、当時のローテーションには、先発に転向した牛島和彦さん、2年目の伊良部秀輝さん、園川一美さん、小川博さん、そして、村田さんがいた。
閑古鳥が鳴く本拠地の川崎球場が満員になったのは、村田さんが200勝をかけて臨んだ試合だった。村田さんは結局、5月13日の山形県野球場での対日本ハムファイターズ戦で200勝をマークするのだが、翌日のスポーツ紙の村田さんがスタンドのファンに応える写真の横にはボクが写り込んでいた。すっかり日焼けしたその新聞はボクの母の宝物で、村田さんには感謝したものだ。
練習後に「村田さん、ちょっと、お聞きしたいことがあるのですが」と聞くと「ひとつだけだぞ」と言われるのが日課だった。実は話好きな村田さんは、ひとつだけしか答えないことはなかった。90年に流行語に選ばれた、淑子夫人命名の「昭和生まれの明治男」だった。
村田さんのトレーディングカードは、やはり、「マサカリ投法」である。BBM「2021 千葉ロッテマリーンズヒストリー 1950-2021」ではレギュラーカードで見事な「マサカリ投法」がカードになった。そして、直筆サインカードには「人生先発完投」のインスクが入った。90年に10勝をあげて現役を引退した村田さん。引退後もマスターズリーグで、始球式で豪快な「マサカリ投法」で、快速球を披露した。72歳、逝くにはまだ、早かった。
Cove(ライター)
元スポーツ紙ライター。国内外のコレクションアイテムを収集して30年あまり。バブルヘッドのコレクションが自慢で日本唯一のバブルヘッドライター(自称)。トレカはレギュラカードのコンプリと日本人メジャーが中心。