日本のプロ野球でフォークボールを本格的に武器にして「フォークボールの神様」と呼ばれた杉下茂さんが6月12日に天国へ旅立った。16日に明らかになった。97歳だった。
東京府(現東京都)出身の杉下さんは帝京商業学校(現帝京大高)、明大専門部(旧制)などを経て1949年、中日ドラゴンズに入団。54年には、32勝で最多勝に輝き、エースとして中日のリーグ初優勝に貢献。同年の西鉄との日本シリーズでは5試合に登板し、チームを日本一へと導き、自身もMVPに選ばれた。55年には野^ヒットノーランも達成した。
1959、60年に中日の監督に就任し、公式戦登板はなかったが、61年に大毎(現ロッテ)に選手兼任コーチとして移籍して4勝6敗の成績を残し現役引退。通算成績は215勝123敗、防御率2.23で、最多勝2度、最優秀防御率1度、沢村賞を3度、獲得した。
引退後は阪神、中日で監督、巨人、西武などで投手コーチを務めたほか、多くの球団のキャンプに臨時コーチとして招聘された。1976年に巨人の投手コーチに就任した際には、投手陣を再建し前年、最下位に沈んだ長嶋ジャイアンツをリーグ優勝に導いた。79年の「地獄の伊東キャンプ」では江川卓さん、西本聖さん、定岡正二さんらを鍛え上げた。
ボクは残念ながら、杉下さんを直接、取材させていただく機会がなかった。だが、日本ハムの担当記者だった1993年のことである。「親分」こと大沢啓二監督(当時)が、西武・森祇晶監督を口撃した際に、投手コーチだった杉下さんを「ぬらりひょん」と呼んだ。「ぬらりひょん」とは妖怪である。投手のやりくりに苦労していた大沢監督は、常勝軍団の投手王国を築いた杉下さんを妖怪のように恐れていたのである。
90歳を過ぎても臨時コーチとしてお元気な姿を見せていた杉下さんのトレーディングカードは多い。中日のレジェンドとして、数多くの記録達成者として、明治大学のOBとしてのカードもある。名投手、名コーチとして野球界の発展に貢献した杉下さんは1985年に野球殿堂入りを果たした。もし、「トレカの殿堂」があれば、間違いなく、名前を刻む存在である。
合掌。
Cove(ライター)
元スポーツ紙ライター。国内外のコレクションアイテムを収集して30年あまり。バブルヘッドのコレクションが自慢で日本唯一のバブルヘッドライター(自称)。トレカはレギュラカードのコンプリと日本人メジャーが中心。