プロ野球ヴィンテージカードコラム「ビンテージカードの普遍的価値」①
ケビン・グリュー
日本プロ野球界を代表する往年のスター王貞治は、サインを頼まれると「努力」という二文字を添えることがありました。
その二文字を書いた本人は、きっと日本のビンテージ野球カードの熱狂的ファンが収集に捧げる「努力」に大きな感銘を受けることでしょう。
1994年に米国で日本のカードを扱う最初の正規ディーラーとなり、『Japanese Baseball Card Checklist and Price Guide(日本の野球カードチェックリストと価格ガイド)』の著者でもある、PSAコンサルタントのゲイリー・エンゲル氏によると、日本のビンテージカードの大半はその痕跡を辿ることがとても困難とされています。
「今現在ワグナーカード[T206]が何枚現存しているのかという話題になることがありますが、 日本のビンテージ野球カードガイドに載っているカードの75%は、おそらくワグナーカードよりも現存数が少ないと思われます。この事は米国だけに限られていません。米国や日本で有名なビンテージカードの内、現存数が100枚あるカードはそれほど多くないはずです」(エンゲル氏談)
日本のカードやメモラビリアを専門に扱うPrestige Collectiblesのオーナーで、長年のコレクターでもあるロバート・クレベンス氏も、同様の見解を示しており、「日本のビンテージカードは、アメリカのカードに比べて本当に希少」だと述べています。
また、日本野球に関する著者であり、PSAセット・レジストリに日本のカードセットを多数登録しているロブ・フィッツ氏は、「希少カード探しはとてもスリリングで、そのスリルを味わうためにカード収集を続けている」と述べています。「日本のビンテージカード収集の醍醐味は、お店で買おうと思っても簡単に買えるものではないということです。アメリカのカード収集に対する興味を削がれてしまった点のひとつは、アメリカのカードはわずかな例外を除き、お金があれば容易に購入できてしまうことです。しかし、日本のカードではそれができません。何年かけても、いくらお金を出しても、簡単に見つけられないのです。」(フィッツ氏談)
エンゲル氏が1993年にガイドブックの初版を発行する前、カード探しはさらに困難を極めていました。多くのカードには、発行年、製造メーカー、選手名が記載されていなかったのです。しかも、当時の製造元がチェックリストを公開することはめったにありませんでした。そのため、ガイドブックの編纂には膨大な時間と労力を要しました。
「日本のビンテージカードの大きな特徴は、アメリカのカードに比べて発見されないものがはるかに多いということです。その理由として、比較的最近まで日本には体系化された趣味が存在していなかったのです。戦前カードの目録を製作したジェファーソン・バーディックのような人物がいなかったのです。」(エンゲル氏談)
フィッツ氏は東京に住んでいた1993年から1994年にかけて、希少カードを求めてフリーマーケットや骨董品店を多数訪れています。「カード収集に関して言えば、1990年代の日本は1960年代から1970年代初頭のアメリカの状況によく似ていました。お宝が見つかることを期待してフリーマーケットに通い、目に留まったものはとりあえず買っておくのです。何しろ、次に野球カードと巡り会えるのが何週間も先かもしれなかったので」(フィッツ氏談)
記録によると、1872年、開成学校(後の東京帝国大学)のアメリカ人教師ホーレス・ウィルソン氏が日本に野球を紹介したとされています。その6年後には日本初の野球チームである「新橋アスレチック倶楽部」が設立され、19世紀後半になると野球は全国の高校や大学で盛んに行われるようになりました。
フィッツ氏によると、日本で最初の野球カードは1897年に作られたと考えられています。それは手描きの丸いめんこ(面子)状のカードで、ボールをキャッチしようと両手を頭上に上げた選手の姿を描いたデザインでした。 めんこは北米のPOG (POGとは牛乳瓶のフタを利用したゲーム)のようなもので、当時は相手のめんこをひっくり返すゲームとして流行していました。1897年のめんこのサイズは直径約3.8センチ で、セットで売られていた商品の一部のようです。クレベンス氏はこれらのめんこを現在も所有しています。
20世紀初頭のポストカード
20世紀初頭、野球は高校や大学でも盛んに行われるようになり、有名チームの白黒やセピア色のポストカードが発行されるようになりました。ポストカードはチームを対象にしたものが多く、特定の選手を取り上げるのではなく、プレーの瞬間やチームの写真が主でした。
フィッツ氏によると、1905年から1929年にかけて日本に遠征したアメリカの大学チームやプロチームのポストカードも発行されたようです。2千枚以上のビンテージポストカードを所有しているクレベンス氏は、「この当時に日本遠征したアメリカチームのポストカードは最も人気があるカードの内のひとつ」と述べています。例として、1920年発行の米国オールスターチーム日本遠征のエディー・アインスミス選手のポストカード(未鑑定)は、2017年3月に行われたPrestige Collectiblesのオークションにおいて、358ドルで落札されています。
めんこ
1920年代から1930年代にかけてめんこの生産が拡大するまで、最も人気のある日本のカードはポストカードでした。当時のめんこはアメリカのカードに比べてサイズが小さく、アメリカよりも厚い紙で作られていました。図柄の大半は選手の写真ではなく挿絵で、フィッツ氏によると、丸形、長方形、楕円形(またはしおり形)、型抜きの4種類が存在していたようです。
「1920年代初頭、あまり有名でない選手のめんこが沢山作られました。大学名が載っているものもありますが、選手名が載っていないこともあります。戦前のめんこの大半は1929年から1934年にかけて作られ、本格的なめんこブームが起きたのは1940年代後半になってからです。」(エンゲル氏談)
「めんこは実際に玩具として使われていたので、保存状態の良いめんこを手に入れるのは極めて困難です。めんこというカード遊びの性質上、入手できるめんこのほとんどがVG(少々難あり)かそれ以下です。」(フィッツ氏談)
通常、めんこは小さな封筒に入った束状か、あるいは自分で切り取るシート状で売られていました。ビンテージめんこの入手価格は、一般的な選手のめんこが10ドル程度、遠征ツアーで来日したメジャーリーガーのものだと1千ドル以上になることもあります。
ブロマイド
1920年代後半から、ブロマイドと呼ばれる白黒やセピア色の写真が人気を博すようになりました。通常、ブロマイドは長方形で裏面は白紙、当時は大学の有名選手や来日したメジャーリーガーのブロマイドが主流でした。サイズは最小1.5x2.5インチから、最大8x10インチまで様々なものがあります。
「ブロマイドが好まれるのは、選手たちが写った実際の写真が使われているからでしょう。」(クレベンス氏談)
エンゲル氏によると、第二次世界大戦後、さらに多くのブロマイドが作られるようになりました。その大半はプロ選手のブロマイドで、アルバムに糊付けされるのが一般的でした。しかし、1950年代初頭になるとブロマイドはほとんど姿を消してしまいます。
ブロマイドの入手価格は、一般的な日本選手のものが10ドル程度で、1934年に米国メジャーリーグチームが来日した際のベーブ・ルースのブロマイド(コンディション良)は5千ドルを超えるものもあります。
1934年: ベーブ・ルースとルー・ゲーリックが来日
メジャーリーグの選手たちは以前から日本遠征ツアーを行っていましたが、ベーブ・ルースとルー・ゲーリッグが参加した1934年の米国オールスターチームが来日した際の歓迎ぶりは熱狂的なものでした。米国チームには、ジミー・フォックスやチャーリー・ゲーリーンジャーなどのスター選手も含まれており、アマチュア選手を中心とした日本選抜チームと18試合を行いました。
「グレート・バンビーノ」ことベーブ・ルースは行く先々で日本中の人々を魅了しました。遠征中には14本のホームランを放つ活躍を見せ、野球場に訪れた観客を大いに喜ばせました。試合結果は、米国チームが全18試合に勝利を収め、総得点は181対36となっています。米国チームによる日本遠征は日本におけるプロ野球発足への気運を高め、1936年、後に日本野球機構(NPB)となるプロ野球リーグの創設に一役買うこととなりました。
米国で賞を受賞した『大戦前夜のベーブ・ルース:野球と戦争と暗殺者(原題:Banzai Babe Ruth: Baseball, Espionage and Assassination During the 1934 Tour of Japan)』の著者であるフィッツ氏は、1934年の遠征ツアーに関連する3つの主要なブロマイドセットがあると述べています。そのセット内容は、「1934年米国メジャーリーグ日本ツアー」(JBR48/20枚)、「1934年マルゼン全米野球チーム 」(JBR34/16枚)、「1934年ベーブ・ルースの大判ブロマイド」(JBR72/ルースのみ8枚)です。
これらのブロマイドセットのカードは、僅かな枚数しか現存が確認されていません。その中でも、ルースのブロマイドは最良の状態であれば5千ドルから1万ドルの値が付くと思われます。
ゲームカード
エンゲル氏によると、ゲームカードが最も流行したのは1948年から1955年までの約7年間です。めんこや小型のブロマイドとほぼ同サイズで、モノクロ写真が使われていました。発行形態は、箱入りセットや未裁断シート、少年野球書籍の付録などが挙げられます。
収集家の間で最も人気のあるシリーズのひとつが“野球かるた”です。これらのカードは箱入りセットで発行され、丈夫な厚紙で作られているのが特徴です。フィッツ氏は、「野球かるたはこの時代における最も魅力的なカードのひとつだ」と述べています。
野球かるたの入手価格は、一般的なカードで数ドル、「1949年東北かるたセット」(JK 5)に入っているルースのカードは保存状態が良ければ500ドル以上の値を付けることもあります。
たばこ・めんこ:王選手が初めてカードに
”たばこ・めんこ”とは、1950年代後半に登場した長方形(約4.6センチx約7.6センチ)のカードのことです。“たばこ・めんこ”と呼ばれていますが、たばこの景品として箱の中に入っていたわけではありません。20世紀初頭の米国のたばこカードに似ていることからその呼称が付けられ、日本プロ野球選手のカードが何百セットも作られています。
”たばこ・めんこ”の中には、日本プロ野球界のレジェンドである長嶋茂雄選手と王貞治選手のルーキーカードもあります。
「”たばこ・めんこ”が1957年から1958年にかけて急に普及し始めたのは、日本プロ野球史上最も人気のある長島茂雄選手のおかげでしょう」とエンゲル氏は語っています。日本野球史に詳しいエンゲル氏は、長嶋選手が読売巨人に入団してプロで大活躍する以前、既に大学でスター選手として華々しく活躍していたと補足しています。
王貞治選手のカードデビューは1959年に発行された”たばこ・めんこ”のセットです。
「王選手のルーキーカードは推測で50〜100種類くらいあります。数枚しかないミッキー・マントルのルーキーカードには及びませんが、1959年に発行された王選手のルーキーカードはすべて、日本のビンテージカードを集めているアメリカ人コレクターの間で最も人気のあるカードだと思われます。王選手のルーキーカードは種類が多いので、種類ごとの希少性が価値を大きく左右しますが、 1952年版Topps社製のミッキー・マントルのように一枚だけずば抜けて高いカードはないようです。」(エンゲル氏談)
2017年10月、1959年発行のホシ玩具製シリーズの一枚である王選手のルーキーカードPSA MINT9(OC)がeBayオークションに出品され、7,999ドルで落札されました。これは同じカードの中で最も高いPSAグレードが付いたものです。しかしながら、フィッツ氏によると、未鑑定のあまり保存状態が良くないカードであれば100ドル以下で購入できる場合もあるということです。
キャンディカード/ガムカード
日本のプロ野球選手が載っているキャンディカードとガムカードは、1950年から1960年にかけてが全盛期です。
これらのカードは概して、めんこやブロマイドよりも発行枚数が少なく、薄い紙に印刷されていることが多いため、保存状態の良いカードを見つけることはほぼ不可能です。フィッツ氏によると、このタイプのカードの大半は、小さな駄菓子屋などでキャンディと一緒に包装され売られていたそうです。
「当時ガムやキャラメルを製造していたメーカーは、1960年にこぞって野球セットを作るようになりました。その理由は定かではありませんが、未だに新しいセットが発見されることもあります」(エンゲル氏談)
日本カードのアメリカへの流出
エンゲル氏によると、1960年代後半、3種類の日本プロ野球カードセット(1964年の森永スタンドアップ、1965年の不二家ガム、1967年のカバヤリーフ)が大量に米国へ流失し、その多くがその後転売されたとされています。
白枠が特徴のTopps社製スタンドアップシリーズ(1964年版)に似たデザインの1964年版森永カードは、サイズが3.5インチx5.5インチで、表面にはハッキリとした色使いのカラー写真、裏面には選手の個人成績が印刷されています。これまでに17枚のカードが確認されていますが、その内の12枚が1960年代にアメリカに渡って来たと報告されています。
カード総数が105枚の1967年版カバヤリーフシリーズは、アメリカで最も収集されている日本プロ野球ビンテージセットです。
「カバヤリーフカードは、アメリカのコレクターにとってはT206や1952年のTopps程度のものですが、日本人コレクターにとってはそうではありません。なぜなら、日本ではこれらのカードを滅多に見られないからです。アメリカでの現存数は日本の10倍以上と推測されます」(エンゲル氏談)
カバヤリーフのサイズは2-3/8インチ×3-3/8インチで、アメリカのカードに類似した初めての日本のプロ野球カードです。セットの表面は2種類のデザインがあり、ひとつは選手の写真を丸で囲んだデザイン(1959年版Toppsカードに類似)、もうひとつはカードの大部分を選手の写真が占め、下部の色付けされた長方形部分に選手名が印刷されているデザイン(1963年版Toppsカードに類似)です。裏面は横長のレイアウトで、選手情報や個人成績が日本語で印刷されています。
このシリーズに極めて希少な4枚の読売巨人の選手カードがあることは特記に値します。その選手名は、渡辺秀武 (#2)、城之内邦雄(#3)、高橋一三(#8)、吉田勝豊(#17)です。何らかの理由で、1960年代にアメリカに渡ったカードの枚数が極端に少ないようです。
「正確な数は把握できていませんが、これら4種類のカードは多くても10枚、カードによっては5枚未満しかない」とエンゲル氏は推測しています。
2017年10月のPrestige Collectiblesのオークションで、VG-EX (ungraded)城之内カードが2,295ドルで落札されました。同オークションで、VG-EX高橋カードが1,725ドルで落札されています。
日本カード収集の見果てぬ夢
エンゲル氏、フィッツ氏、クレベンス氏の3氏は、口を揃えて「沢村栄治のビンテージめんこやブロマイドが見つけることが究極の野球カード探しだ」と述べています。
1934年11月20日、まだ10代の沢村投手はその名を轟かせる偉業を成し遂げました。強打者ぞろいの全米オールスターチームを相手に投球し、ゲーリンジャー、ルース、ゲーリック、フォックスを次々と三振に打ち取るなど、失点がわずかに1点という快投を見せたのです。彼は後に日本最高のプロ野球投手になりましたが、残念ながら第二次世界大戦で戦死しています。今日、アメリカのサイ・ヤング賞に相当する日本プロ野球の最優秀投手賞は、彼の偉業を称え「沢村栄治賞」と名付けられています。
「彼の現役時代に作られたカードがの存在はまだ確認されていません。もしも1枚でもカードが見つかったら、日本野球カードの収集家達が追い求めていた夢が実現したことになります。可能性があるとすれば、たぶんブロマイドでしょう」(フィッツ氏談)
ビンテージカード市場の動向
日本のビンテージカードの大半はその希少性にもかかわらず、まだ比較的手頃な価格で入手可能で、米国では多くの収集家が集めているということもありません。
「アメリカ人のカード収集家にとって最大の障害は、日本語が読めないことと、日本の選手に馴染みがないことです。」(クレベンス氏談)
また概して、日本人のビンテージ野球カード収集熱はまだそれほど高くない状況です。しかし、前出の3氏によると、少しずつその関心が高まってきているようです。
「以前よりも多くの日本人がビンテージカードに注目し始めたのは間違いありません。しかし、まだ比較的少人数で、何十万人という規模になっていません。日本にいる熱狂的なビンテージコレクターは数十人から数百人程度でしょう」(フィッツ氏談)
日本のビンテージカード市場は、まだほとんど未開拓のままだと言えます。
クレベンス氏は、「アメリカのビンテージカードはとても高額で、しかも新しいカードが出てくることは滅多にありません。しかし、日本のビンテージカードの収集は、日本のカードについて学んだり、アメリカのカードに比べてとても手頃な値段で手に入れることができるのが魅力」と語っています。
「日本のカードは投資にも向いていると思われます。しかし、その前に学ぶべきことは沢山あります。投資には充分な事前リサーチが必要です。今現在、過小評価されているルーキーカードが数多く存在します。あの王選手のルーキーカードでさえアメリカでは過小評価されているのですから」(フィッツ氏談)
以上
英語の記事は添付をご参照ください。
https://www.psacard.com/articles/articleview/9494/part-1-collecting-japanese-baseball-cards-yen-vintage
記事の提供:PSA JAPAN https://www.psacard.co.jp/